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こんにちは!先輩

こんにちは!先輩

森谷和子先生
宇部興産中央病院 放射線科 部長

「変わったことと変わらないこと」

 このコラムの執筆依頼をいただいて、自分の医師としての半生をふり返るきっかけとなりました。私の経験が若い方たちの参考となるかどうかはわかりませんが、ご披露したいと思います。

 昭和56年に山口大医学部を卒業、今のような臨床研修制度はなく、そのまま放射線科へ入局しました。当時は大学病院にwhole body CT がなく、MRI などは聞いたこともない様な時代でした。放射線科医は何をしていたかというと、胃や大腸の透視、胸部写真の読影、血管造影、超音波検査、呼吸機能検査、リンパ管造影、RI検査など。そして放射線治療です。研修医の重要な任務は、近隣の病院で患者さんのCTを撮ってもらい、フィルムをもらって帰ることでした。そして入院患者さんの診療が結構大きな比重を占めていました。先々代の教授の方針で、「放射線科医は常に患者とともにあれ」ということで、助手以下の人はだいたい、4~5人の受け持ち患者がありました。入院患者さんは、肺がんを始め、肺結核や肺炎、間質性肺炎、じん肺、胃潰瘍や胃がん、肝臓がんなどなど。実に多彩でした。私が、放射線科を目指したのは、この間口の広さにも魅力があったと思います。CT、MRIの読影に追いまくられる、今の若い人たちには信じられない世界かもしれません。入局3年目に大学にwhole body CT が導入され、放射線科を取り巻く環境は大きく変化していきました。現在では、放射線科専門医は診断と治療に完全に分かれ、それぞれ高度な専門性を求められる状況です。昔のような何でもありでは、やっていけなくなっており、外来、入院の患者さんを見る機会も減って、診断専門医は一日中レポート作成に追われています。これは、逆に言うと育児中の女医にとっては、仕事を続けやすい環境かもしれません。入院患者の緊急呼び出しがないのは、大きなメリットになると思います。

 医師として3年目に一人息子を出産しました。当時は大学にいたので、妊娠中からいろいろと医局にはサポートしていただきましたが、今のような育休制度はなく?(知らなかっただけ?)産後7週間で復帰しました。いきなりフルタイムで復帰できたのは、ひとえに子供を預かり育ててくれた「子守のおばちゃん」のおかげです。実家が近くにないものにとっては、何とかして他人の援助を得なければ、仕事を続けるのは不可能です。今思えば、生後2ヶ月にも満たない子供をよく預かってくれたものだと思います。平日日中はおばちゃんにお願いしましたが、おばちゃんも休みが必要ですから、平日日中に仕事を片付ける必要がありました。

 今の病院に移ったのは、子供が幼稚園年中さんの時でした。入院患者の受け持ちがあり、悪性疾患が多かったので、当然夜中の急変も頻繁にあり、呼び出されることも多かったです。主人が四国へ単身赴任でいなくなったので、夜間の呼び出しはストレスの多いものでしたが、それでも数時間で片を付けて帰ることはできました。当直は、時間を拘束されるので、とても無理で、免除していただきました。主人が山口県に帰ってきてからも、循環器内科医でカテマンでしたから、MIなどが入ると飛んで行ってしまいます。当てにはできないので、当直はしませんでした。結局、当直業務に復帰したのは、子供が大学に入り、家を出てからです。当直免除に関しては、批判もあったかとは思いますが、これを気にしていては仕事を続けることは不可能と思い、聞こえないふりをして過ごしました。最近のような時短勤務や当直免除の制度があればきっと利用しただろうと思いますが、周りのお目こぼしでやっていくしかありませんでした。 

 医療を取り巻く世間の目の厳しさは、30年前とは格段に差があります。その中で、子育てをしながら、仕事を続けていくにはやはり制度を整備し、きちんとした形でやっていくことが必要であると思います。勤務されている病院に支援制度があれば、遠慮無く利用し、もし無ければ、要求しても良いと思います。もしくは、制度のある病院に転職するという選択肢もありかもしれません。自分と家族を守る必要があるのですから。でも、それと同時に子育て中の女医さんを支援するために、誰かが負担をしてくれていることを忘れてはいけないと思います。もし、同僚が何か困っていたら、積極的にできる支援を申し出てください。このお互い様の関係が、職場の雰囲気を居心地のいいものに変えるはずです。

 どうか職場に居づらくなってやめる方が、1人でも少なくなり、せっかく国費を使って養成された貴重な医師が、長く仕事を続けられることを切に祈っています。

プロフィール

現職
宇部興産中央病院 放射線科 部長
出身地
福岡県
出身大学
山口大学
卒業年
1981年