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こんにちは!先輩

こんにちは!先輩

奥園美子先生
おくぞの耳鼻科クリニック 院長

「しなやかに道を歩む」

 私は、還暦を過ぎた平凡な耳鼻咽喉科開業医です。この場に寄稿するのも憚られるぐらいですが、多少は思うところもあるので、拙文が、若い女性医師の皆さんに、些かでも参考になれば幸いです。

《自己紹介》
 1953年滋賀県で出生。父は教師、母は医療職でしたが、医師ではありません。地元の公立高校から山口大学医学部に進学。1979年大学卒業と同時に結婚し、母校の第一病理学講座に入局して、大学院に進学。1985年出産。同年、下関市の総合病院に研究検査科・科長(病理専任医師)として赴任。1987年山口大学耳鼻咽喉科に入局。2000年開業、現在に至ります。

《医師を志した動機》
 医師を志したのは、母の影響です。母は、一貫して、女性も仕事を持って自立的に生きなければならないと、私に教えましたし、幼い頃から、フルタイムで仕事をする母を見てきたので、私には、専業主婦になるという選択肢が、最初からありませんでした。そして、まだまだ職業上の男女格差の大きかった時代に、女性の仕事の中で、最も男女格差がなさそうに思えた医師の道を選択しました。

《キャリアアップに回り道はない》
 卒後基礎に進んだのは、人間関係の構築が苦手だったので、自分は臨床家向きではないと思ったからでした。大学院受験時の面接で、他の基礎講座の教授から、”女医は、結婚して子供を産んだら、すぐに使い物にならなくなるから駄目だ。”と言われ、この言葉に発奮して、少なくとも大学院卒業までは子供は持たないと決め、一日の大半を研究室で過ごしました。この時期に、病理形態学の基礎と、研究の方法論を徹底的に学べた事は、後々、私の武器になったと思っています。

 6年間を病理医として過ごし、その後耳鼻咽喉科に転科したのですが、勤務先では、研究検査科・科長、耳鼻咽喉科医師併任という立場でしたので、約10年間、臨床病理医のルーチンワークを継続しつつ、臨床医として、外来・病棟・手術・当直業務をしました。臨床医としては、同期より遅れる事6年でのスタートでしたから、基礎に進んだのは回り道ではなかったのかと、思い悩んだ時期もありました。しかし、自ら患者さんを診察し、手術をし、その病理組織を自らが診断するという得難い経験を含め、病理学というバックボーンは、私が、医師としての独自性を培う上で欠かざるものになりました。

 医師として生きていく上では、途中でキャリアの方向性が変わる場合があり得ます。私の様に、転科という、殆ど断絶に近いキャリア変更でなくとも、大多数の医師が、望むと望まざるとに関わらず、キャリアの方向性を細かく修正しながら医師の道を歩んでいくのだと思います。その際、どんな経験も決して無駄にはならないし、キャリアアップに回り道はないという事を、私は自分の経験から申し上げたいと思います。

《仕事を好きになる》
 妊娠が発覚した時、夫は単身赴任中でした。夫の赴任先が、所属講座の関連病院で、たまたま臨床病理医のポストに空きがあったので、教授にお願いして赴任させて戴きました。赴任後3か月で出産、7週間後に復帰しました。子供の養育は、生後数か月は実母、その後は小学校卒業まで、個人的に探し当てたお守りさんにお願いしました。この方に巡り合えなければ、私の医師人生はなかったと思います。

 現在、社会情勢の変化から、個人的に育児支援をして下さる人材を探すのは、至難の業となった一方、時短勤務や当直免除の制度など、昔はなかった支援体制も整備されつつあります。これは、女性医師が増加し、医療現場の中で一大戦力となってきたが故の、時代の要請です。システムとしての支援体制は、もっと整備されなければならないと考えますが、若い女性医師の皆さんが、ご自分の勤務環境の中で受けられる支援を、探してみる努力も必要だと考えます。

 私の場合、夫と同じ病院に赴任できた事、安心して養育を任せられる人材が見つかった事、いずれも幸運であったと思っています。とは言え、当時の私には、仕事を辞めるという発想は一切なかったので、続けるためのどんな努力も惜しみませんでした。その原動力は、仕事が好きだという一点に尽きます。時には思わぬ困難に直面し、医師としてのモチベーションを維持するのが難しい時もあるのが現実です。それでも、仕事が好きだという一点を堅持している事ができれば、続けることができると思います。

 私たちより更に大先輩の女性医師達が、文字通り人生を掛けて切り開いて下さった道を、私たちは歩ませていただいています。そのことを忘れないでいただきたいと思うのです。

プロフィール

現職
医療法人清香会 おくぞの耳鼻科クリニック 院長
出身地
滋賀県彦根市
出身大学
山口大学
卒業年
1979年