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こんにちは!先輩

こんにちは!先輩

兼定啓子先生
耳鼻咽喉科ののはなクリニック 院長

「素晴らしきかな人生」

 1949年11月3日、―湯川秀樹博士のノーベル賞物理学賞が決まった日―
山口市阿知須で生まれました。父が内科開業医で有床診療所であった為物心ついた時から一家の団らんというのは無い、大勢の人たちの中で生活をしていたと思います。TVが始まり所謂ホームドラマを観る様になり普通の家庭とはと知った次第で、私の家には、お正月とお盆に2日間のみ父と一緒に出かけるのが唯一の家族だけの時間だったと思います。小学6年時、将来なりたいもの・職業について、既に医師と決めていました。父の後ろ姿をみていた為でしょうか。山口大学教育学部付属中学・宇部高校卒業し、関西医科大学を1975年3月卒業。卒業後は山口に帰ることは決めていたものの、何科を専門にするか未定のままでした。今とは違ってのんびりとした時代でした。外科系と漠然としていただけて、たまたまその年、山口大学医学部耳鼻咽喉科入局者ゼロという事情もあったかもしれませんが、父が本庶正一教授と親しくさせて戴いていたご縁で誘われて耳鼻咽喉科へ入局しました。その当時の耳鼻咽喉科は慢性中耳炎の全麻は麻酔科へ依頼し、他の手術はお互いに先輩の先生からご指導戴き、麻酔もしていました。この経験は3年後の1978年8月に下関済生会病院耳鼻咽喉科へ異動となった折、役立ちました。済生会でもまだ麻酔科がなく、外科の先生へお願いするか自分で挿管していました。済生会病院では大変貴重な症例を多数経験し、大分医大初代教授、故・茂木五郎先生に度々手術応援に来て戴きました。両側同時扁桃周囲膿瘍、特発性頚動脈破裂など、今考えても恐い疾患がありました。若さ故チャレンジできたと思います。当時の済生会病院は野武士の集団の様で、外科・整形外科の先生に可愛がって戴きました、3年半後一旦山大へ帰り、1985年7月から県立中央病院(現・県立総合医療センター)耳鼻咽喉科部長に着任。着任2日目には70代男性の山モモの気管支異物があり、手術室にはギャラリーが沢山。異物摘出した瞬間、拍手喝采。同病院での仲間としてしっかり受け入れて戴きました。実は着任した初日、救急患者として食道異物・気管支異物を先ず考え、食道鏡・気管支鏡の設置場所、器具の点検をしていましたので、幸いでした。7年半在任中、頭頚部癌の数多くの症例を経験し、娘が小学生となっていた為、朝出ると何時に帰宅するか分からない不規則な時間に悩み、思いきり山口で開業しました。父の最晩年でしたが父は開業医として色々苦労が多く、開業に大反対でした。勤務医の方が臨床のみに関われる立場が理想的だと主張していましたが、内科医と外科系の耳鼻咽喉科医との違いを説明し、ようやく同意にこぎつけたのですが、開業を待たずに亡くなってしまいました。

 1993年1月11日、耳鼻咽喉科ののはなクリニック開院しました。開院後の9月から当時殆どなかった言語療法を開始しています。現在、言語聴覚士常勤4名のいる耳鼻咽喉科診療所として続けています。勤務医時代、もう少し時間的余裕が欲しいと開業に至ったのですが、当初の自分の予想を裏切り、少なく共3回/週は朝から深夜迄診療をしています。働くお母様方の為、日中に受診できないこども達の為にと診療時間内の予約終了後の予約外として夜間診療をしています。しかしこの診療の中から乳幼児の急性中耳炎(再発性難治例)を多く経験し、和歌山医大 山中昇教授の勉強グループに加えて戴き、学会発表・分担執筆をさせて戴き、一開業医ですが充実しています。言語療法は聴覚障碍を主に、発達障碍によることばの問題の子ども達も多く診ています。勤務医時代には考えられない広がりを実感しています。

 一方プライベートとして体力維持の為、大学時代ワンゲル部所属で山に登っていましたので2003年5月から山行き再開し、2015年12月27日、ホームグランドの右田ヶ岳登頂300回となりました。富士山・北アルプス等にも行きました。海外の山にも行き気分転換も図っています。時には極めて多忙ではありますが、山が私自身の体力・気力の源となっています。土曜日の映画のレイトショーも楽しみの一つ。山口に映画館がなくなり防府・宇部へ出かけます。社会性のある映画が好きですが中々来ません。また、クラシックコンサート・美術館巡りも楽しんでいます。

 開業時には60歳定年と考えていました。現在66歳になっていますが、まだもう少しやってみようと思っています。

プロフィール

現職
耳鼻咽喉科ののはなクリニック 院長
出身地
山口県山口市
出身大学
関西医科大学
卒業年
1975年