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こんにちは!先輩

こんにちは!先輩

田村博子先生
田村医院 院長

「みんなちがって、みんないい」

 こんにちは!山口で内科を開業している田村と申します。

 このサイトの一番初めに黒川典枝先生が「原体験」ということを書いておられます。先生のおっしゃる「原体験」とは異なるかもしれませんが、私にも振り返ってあれが原点だったな、と思う体験があります。

 私は息子が小学校に上がる年に医学部に入りなおしました。教養課程の2年間が終わって専門課程に上がろうとしていた4月1日、母が卵巣がんにかかっていることがわかりました。母はそれまで大きな病気をしたことがなく、私の医学部再入学を一番応援してくれていました。春の陽光がとても明るく、テニスコートで同級生たちが笑いさざめいていたのが、とても印象に残っています。

 それから母は5年間闘病し、私が研修医1年目を終えようとする3月に亡くなりました。

 母の死後 今度は人並み以上に丈夫だった父に冠動脈のバイパス手術を皮切りに次々と病気が重なった後、食道がんがみつかりました。父は外科開業医で、私は卒後4年目でした。家に戻って内科を新設し、1年あまり経ったところで父も亡くなりました。

 母は家が好きでした。術後、抗がん剤治療を受けていたころは 月曜の登校前に母を大学病院の病棟へ送り届け、金曜の講義が終わると一緒に帰宅するのですが、月曜の車中はどんより、金曜は飛ぶような勢いでした。父は白衣のポケットに持続シリンジを入れ肝動注しながら、私と一緒に外来に出ていました。父も母も、入院は最低限にして、家でできる処置は家でしていました。

 父が亡くなって、否応なく ひとりで診療所を続けることになりました。希望があれば、できるだけ 両親が家でできていたような医療行為を患者さん宅で行い、住み慣れたご自宅で過ごすお手伝いができたら、という思いで、在宅緩和ケアの勉強をし、往診をするようになりました。翌年から介護保険が始まりましたので、始動したばかりの訪問看護さんとタグを組んで、いろんなお宅へ出かけました。当時は「最期にわずかな間でも家で!」という段階での退院もあり、紹介を受けた翌日の早朝に看取りのために呼ばれることもありました。

 私の背中を押してくれたもうひとつは、山口で緩和ケアをけん引してこられた末永和之先生の言葉でした。「最期の時に医者が居合わせなくても大丈夫ですよ、見守るご家族が『息を引き取った』と言われた時がご臨終のときです。」この言葉を聞いた時は研修医2年目の頃だったでしょうか。病棟で心電図がフラットになるのを皆が見ているようなご臨終の場しか経験がなかった身にとって、それは「目からうろこ」でした。それから現在に至るまで、末永先生には突然相談の電話をするなど、お世話になりっぱなしです。

 父の代からの看護師や患者さんにも励まされてきました。前身が外科でしたし、昔からの患者さんは「先生、ここで何もかも診て!」と言われます。そう言われて、私の方は「おっかなびっくり」です。外科の経験の長い看護師たちも、在宅患者さんの処置など新しいことを一所懸命学んで支えてくれました。

 開業医の日々は、外来、訪問診療、夜間診療所、休日当番、産業医、学校医、医師会...と、てんてこまいです。ひとりですので、末期の方を抱えて他の業務と綱渡りみたいなこともありました。そういう点ではスリリングですし、夜中に呼ばれることがあっても、私は町医者の仕事が好きです。

 ひとりひとりの患者さんがご自分で納得のいく最期を迎えられるよう寄り添うことができたらいいな、と思いますが、実際には認知症患者さんに振り回されていたり、成長がないな~と忸怩たる思いをすることばかりで、ちっともスマートにいきません。でもこの「こんにちは!先輩」の皆さんのエッセイを読むと女性医師の働き方は本当に多様性に富み、「みんなちがってみんないい!」と言われているようで励まされます。そして、患者さんの暮らしに寄り添うような地域医療も、女性医師に向いているのではないかと思います。

 今年は発症したときの母と同じ歳になりました。父と母がその死をもって教えてくれたことが私の原点と考えていますが、今頃ふたりで「博子は相変わらずへなちょこだなぁ」と見ているかもしれません。でも、あちらで再会する日まで細々とでも町医者の仕事が続けられたらいいなぁと思います。

プロフィール

現職
田村医院 院長
出身地
山口市
出身大学
山口大学
卒業年
1995年