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こんにちは!先輩

こんにちは!先輩

綿田敏子先生
綿田内科病院 医師

「今このとき何を優先させるか・・・その時々でしなやかに・・・」

 このたび、このような機会を与えて頂きましたが、私のようなものが若い先生方の将来像を描く助けになりようもなく、どうしたものかと・・・。さらに,何を伝えたいのかと自問してみたところで浮かんでくるアイデアもなく困りはてております。

 私は卒後31年の内科医です。大学卒業後山口大学第二内科のお世話になり、平成5年10月より主人と二人(正確には1.5人くらい)で個人病院で仕事を続けております。この春は、私どもの家族にとりましては巣立ちの春となりました。ふたりのこどもたちが,それぞれ大学・高校に進学して自宅を離れてゆきました。「寂しくなるね。」と言われますが、私としては心を新たに、勉強し直そうと思っているところです。

 ワーク・ライフ・バランスのとり方は、人それぞれに異なるものですし、同じ人でも時期によって変わるものです。自分だけで決められるものでもないと思います。学校から職業へとつながっていく中で、それとは別のラインでの結婚、出産、育児、親の介護など多くの要素がからみ合ってきます。自分の思いどおりにいかないことは日常茶飯事ですし、究極の選択をせまられることもあると思います。そのため、イライラしたり悩んだりすることもあります。ただ、それでも日常は淡々と流れてゆきますのでどうにかして回していかなければなりません。家族はもちろん周囲の方々に理解をしていただくことは欠かせませんが、強力なサポーターにめぐり会うことが大切です。私の場合は、第一子出産後に助けてもらうことをあてにしていた母が病に倒れてしまい、途方に暮れていたところ保育園でお世話になった保育士の先生に個人的に助けていただけたこと、第二子出産後は私どもの病院の職員だった方に母の代わりのように助けていただけたことで今日まで過ごすことができました。人に甘えてばかりではいけませんが、ひとりですべてのことがこなせる訳ではありません。自分は今このとき何を優先させるかというところを考えて目をつぶるところは目をつぶるということが必要ではないかと思います。

 話は代わりますが、私が医師を志すひとつのきっかけとなったのは祖父の死ではなかったかと思います。おそらく脳血管疾患の後遺症だったのでしょうか、私が小さいころから祖父は自宅で療養しておりましたが、私が小学5年生の秋から床に伏してしまい、その年の12月に亡くなりました。今のような介護の制度はなく、近くの開業医の先生がこまめに往診して下さり、家族が交代で介護をしておりました。祖父の旅立ちを目のあたりにしたことは当時の私にとっては大きな衝撃でした。呼吸停止したその瞬間からそれまでの生命ある人から「もの」に変貌してしまうのです。別れの悲しみの中で「死ぬ」ということはどういうことなのだろうと考えていました。中学・高校時代にも哀しいことに同級生との永遠の別れを経験し、人が死ぬとはどういうことなのだろう、逆に生きるということはどういうことなのだろうという漠然とした問題を心の中に抱くようになりました。これが私の出発点となっていたのではないかと思います。現在その問題については何かつかめたのかと問われれば「・・」です。意識の外に押しやられてしまっているようです。

 医師になってからは、臨床の場では膠原病リウマチ疾患に興味を抱き少々関わってしまいました。これも、そもそも循環器診療に関わりたいと山口大学第二内科の門をたたいた私に、大学院で与えられたテーマが生化学・免疫の分野になったことが縁となったのです。疾患に関して学ぶべきことが多かったことはもちろん、主に女性の方々の人生における様々な喜怒哀楽に関わったことが、私の人生においてたいへん勉強になりました。学生のころ膠原病という疾患群について講義を受けたときには、病態がわかりにくく治療も主に副腎皮質ステロイド剤しかなく,若い女性に多く予後も不良という負のイメージが強かったのですが、実際に関わってみますと学ぶべきことの多い分野でした。流れに身を任せてなるようになると生きてみることも悪くはないと思っております。

 とりとめのないことしか書けませんでしたが、現実には日々その場しのぎのくり返しで今日に至っているというのが私の実情です。女性を取り巻く問題は簡単には解決できないことばかりですが、困ったときには誰かに助けを求めることが大切だと思っています。こんな医師もいるのだと少しでも気にとめていただければ幸いです。

プロフィール

現職
綿田内科病院 医師
出身地
山口県山口市
出身大学
広島大学
卒業年
1985年