Interview
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Where There’s a Will There’s a Way
Where There’s a Will There’s a Way
この記事を読んでいただいている皆様へ、
はじめまして。山口大学医学部医学科3年の加藤 佳那子です。
私は今、自己開発コースの一環としてカナダのニューファンドランド島にあるメモリアル大学にて研究留学をしています。自然豊かなこの土地で、自分の興味のある研究のみに5か月も時間を使わせていただけることにとても感謝しています。
このような環境の中で、なぜ医学部に入学をすることになったのかという経緯を振り返りたいと思います。私の今までの経験が少しでも何かの役にたてば幸いです。
私は父の仕事の都合で幼少期をほぼ米国で過ごしました。米国では、多くの学生が自分のライフスタイルや家族との関係に対する葛藤、また将来への不安を相談するカウンセラーを持っているのが通常です。私の場合は、カウンセラーというよりは恩師に当たる先生に出会い、『将来医師としてたくさんの人を救いなさい』という助言をもらったことから医師を目指すようになりました。
しかし、医学部受験の準備を十分に行ってこなかった私は、帰国後医学部に入学することができませんでした。浪人するほどの余裕もなかったことから当時合格をいただいており、かつ自分が最も興味を示せるだろう医用工学の道に進みました。医用工学とはその名の通り、工学的手法と技術で医学にアプローチすることにより、更なる医療の発展に貢献する学問です。例えば、人工臓器の開発や手術ロボットの開発などもその一つにあたります。私の所属していた研究室は人工透析器の開発で有名な研究室であったのですが、なぜか東京女子医科大学との共同プロジェクトであった新規細胞膜シートの開発が私の修士のテーマとなり、最後の2年間は母校の早稲田大学ではなく東京女子医科大学で過ごしました。
卒後、キャリアをどこに進めるか悩んでいた際に、教授から『研究職より医師のほうが向いているから医師を目指しなさい』と助言をいただいたのにも関わらず、当時の私はそのビジョンがクリアにもてませんでした。その代わり、自分が一番得意でかつ時間をどれだけ費やしても苦にならない企画職に興味をもち、世界一のマーケティングカンパニーに就職を決めました。
その後、広報や人事を経験し、社会人としてのキャリアを積んできたのですが、妹の闘病や義父に訪れた突如の死を目の前にし、『もし死ぬ前にやりのことしたことがあるなら、なにを後悔するだろう・・・』と自問自答し33歳で医学部編入をすることに決めました。
20代の頃はまさか自分が医学部に再入学をするなんて思ってもみませんでした。きっとバリバリ働いて、海外での仕事を獲得していると思っていました。しかし、思い描いていたような人生にはならず、気が付けば医用工学を専攻し、そのまま研究職にもつかず、文系就職をして転職を3回繰り返していました。そして今、二度目の大学生をしています。
この道が正しかったのかどうかはわからないけれど、少なくとも自分の“意思”がこれまでの、そしてこれからの人生を切り開いていくのだと思います。そしてその“意思”は時を追うごとに変化していってもいいのではないかと思うのです。
最後に、留学をする際の奨学金の面接で言われた言葉が胸に残っているので共有したいと思います。
“今日、この最終面接に残った人は書類選考から勝ち残ってきた1/20の人です。つまり、自分たちの後ろには同じ志をもった19人の人たちがいるということです。その人たちが歩みたかった道があるということを忘れてはいけない。”
今、私が歩んでいる道は当たり前ではなく、たくさんの人によって支えられていることを決して忘れてはいけないと思いながら、今日も一日を大切に一歩ずつ進んでいこうと思います。